2009.10.10 Saturday 23:55
「ハイボール」が最近ブームになっているといいます。
いわゆるウイスキーのソーダ割り。
仕掛けは酒蔵メーカーのようですが、雰囲気に合う立ち飲み業態の店が増えるのに伴って、昨年あたりからメニューに取り入れる店が増えたとか。新潟市のバーや居酒屋などでもメニューに載せているところが増えているようです。
ブームを伝える雑誌の記事を読んで、初めてハイボールを飲んだ日のことを懐かしく思い出しました。
初めて入った居酒屋で、最初に注文したお酒が「ハイボール」だったのです。
今では考えられませんが、当時はまだ「ビール=苦いもの」と思っていて、カクテルの種類も知らず、メニューの一番上に載っていたハイボールを注文。ちょっとどきどきして小さな声になってしまったせいか、店員が聞き違えて「灰皿」を持ってきて、一緒に行った姉とともに唖然としました。5歳違いの姉と一緒に外で飲んだのは、後にも先にもその一回だけで、何を話したのかも忘れてしまいましたが、灰皿の思い出は、いかにも自分の子供っぽさを象徴するようでよく覚えています。
あの時のハイボールは、「大人」を思わせる淡く苦い口当たりでした。今はどう感じるのか、そのうち試してみようと思います。
2009.10.09 Friday 19:31
台風18号が各地に被害を及ぼしました。
かなり強力な台風で、新潟にも接近するというので、一昨日からュースに注目。
本州上陸が伝えられてからは、前もって自転車を倒し、プランターや植木鉢を屋内に入れ、戸締りを確かめて接近に備えました。新潟市や新発田市などでも自主避難されている方がおられると聞き、避難を想定してみると、案外避難場所もはっきり知らないことに気づき、あわててインターネットで確認。赤ん坊を連れて避難するなら何が必要なのだろう、経路は、手段は・・などと考え、あらためて普段の備えの大切さを思いました。
幸い、身のまわりで大きな被害はなく、今日の青空をありがたく思いました。
子供のころ、台風が来るといえば、ろうそくやラジオを用意し、飼い犬を屋内に入れたりして、その「非日常性」を楽しんだものでした。でもそれは責任のなさと、庇護されている安心感があるからこその楽しさだったのだなあと、今思います。
2009.10.04 Sunday 16:15
前日に続き、保存のお話―。
この夏は出産で入院するのに合わせ、家人のために食材をいろいろと冷凍保存していました。フライパンで火を通せば肉野菜炒めになる味付きの生肉+生野菜、サバの味噌煮、レモンと塩をまぶした鶏肉など。いずれも料理の本の「冷凍保存特集」に載っていたものでした。
先日も新聞の記事で、冷凍していいもの悪いもの、という特集がありましたがこの食材を冷凍していいのか悪いのか、迷うことがよくあります。特にいただきものなどでたくさん野菜の在庫があるときなどは、無駄にしないために四苦八苦。迷う度にネットで検索して調べています。
絶対に冷凍できないと思っていたナスは、揚げるか焼くかして冷凍しておけば炒め物などに使えるというのもネットで得た知恵。こんな調子で、あれもこれも、とつい冷凍保存しているものが増えてしまいました。
まるで「保存のための保存」のようになってしまい、膨れ上がった冷凍庫に反省しきり。消費するまで極力買わないように心掛けていました。
今日ほぼ冷凍庫が空になり、久しぶりに中も磨いて気持ちもすっきり。日常の中に、こんな調子で小さな喜びを感じています。
2009.10.03 Saturday 12:06
子供に手がかかり、思うように買い物に出かけられないため、最近はあり合わせのもので料理を作ることが多くなりました。
ある材料で何を作ろうかと考えるのは、ゲームみたいなものだと思えば、なかなか楽しいもの。冷凍しておいたシーフードに牛乳と小麦粉でホワイトソースを作ってグラタン、残った野菜を総動員し、玉ねぎと小麦粉、カレー粉を炒めてカレー、冷凍の豆やコーン、残った鮭を使って簡単チラシ寿司など・・。
食材が着々と消費されていくと爽快感すらあります。
一人暮らしをしているときには、家具から消耗品、食材まで、物は必要以上に買わないように心掛けていました。引っ越しの時に大変だという現実の問題もありますが、持たない身軽さが気持ちよいと感じていたからです。
しかし所帯を持っていると、気づいてみると物が増えている感じも。ここ最近の食材の一掃で「持たない心地よさ」を久し振りに思い出しました。
ところで60代後半の母親は、最近自宅にあるものを極力減らそうとしているものの、「やっぱり育った時代なのか、いらないかもしれないと思っても捨てられないでためてしまう」そう。シンプルに生きようとすることは、実は豊かな時代に生まれ育ったからこその「贅沢」なのかもしれません。
2009.09.20 Sunday 11:39
西日本に住み、まもなく90歳になる祖母が入院しました。
腰が痛いというので、整形外科に連れていくと、腰の骨が折れていたそう。
本人もいつどうやって折れたのか記憶にないらしく、周囲を呆れさせました。
入院は2、3か月になるそうで、不自由な病院暮らしにさぞ嫌気がさしているだろうと思うと、早くお見舞いに駆けつけたい思いです。
両親が共働きだったので、私はこの祖母と小さいころのたくさんの時間を過ごしました。価値観を形成する上で、大きな影響を受けた一人です。
忍耐強さは昔からで、今回の腰骨の一件も、ずいぶん我慢した末の診察だったのだろうと推察。
数年前には転倒して大腿骨を骨折し、これで寝たきりか、と周囲が心配する中、生まれて初めて水着を着て、プールでリハビリに取り組み、自宅に戻って普通に生活できるまでに復活しました。今春には、人生で初めての飛行機に乗って、新潟市に来る予定でしたが、体調が悪く叶いませんでした。
埼玉県に住む夫の祖母も91歳。近所に住む親せきの力を借りながらではありますが、「あたしは誰にも迷惑をかけない」と一人暮らしを断行しています。
戦争があり、戦後の厳しい時代があり、その中を生き抜いてきたからでしょうか。ことにこの世代の女性たちの生きざまは、今の世の中から忘れ去られてしまった大切なものを教えているような気がします。
人に極力手は借りない、ユーモアは忘れず、粋に気風よく生きる−
生まれた大正という時代のイメージとも重なって、たくましさとともに明るさを感じ、いつも勇気づけられます。
2009.09.18 Friday 23:03
ある作家のエッセー集に「みんな誰かの愛しい女」というのがありましたが、生後まもない息子の世話をするたびに、みんな誰かの愛しい「子供」かもしれない、と思います。
言うまでもなく赤ん坊の世話は昼夜を問わず。終わりなく続くらせん階段のように授乳とオムツがえを繰り返し、暑さ寒さに気を配り…。それが苦にもならないことを自分でも不思議に思います。
また、子供を授かって初めて、人はこんなにもあふれんばかりの思いを受けて生まれてくるということを知りました。無事に生まれるように、元気な子であるように、と親が思うだけでなく、周囲の人も同じように温かい眼差しを注いでくれます。その祈りにも似たたくさんの思いに、人は守られて生きていくのかもしれません。
自分はもちろんのこと、あの政治家も、あの芸能人もこんな赤ん坊だったんだ、と思うとある種の感慨が湧きます。無償の愛を与えて子供を育てるという営みを人が繰り返してきたと思うと、圧倒されるような気持ちになります。
息子が生まれてから何度となく思い出すのは、故郷の両親。ありがたさに、少しいたたまれない感じさえします。
2009.09.16 Wednesday 22:25
北海道の友人から、苫小牧銘菓「よいとまけ」が送られてきました。
ロールカステラにハスカップのジャムをしっかり塗りたくり、べたべたするせいか上にオブラートがかけてあります(外さないと切り分けられないのですが)。半ば誇らしげに「日本一食べにくいお菓子」とも言われています。
半世紀以上前からあるお菓子で、苫小牧の代表的なお土産品でもあります。
どうやって食べても手がべたべたになってしまうんですが、この甘さが結構癖になります。上品ないわゆる「スイーツ」とは違うのですが、時々、どうしても食べたくなる一品。
ちなみに「よいとまけ」とは、苫小牧の製紙会社で丸太を上げ下ろしする際のかけ声に由来するそう。この言葉を使った名曲もありますね。
北海道といえば、「白い恋人」「マルセイバターサンド」、最近では「生キャラメル」なんてのも有名ですが、この「よいとまけ」も私にとっては北海道らしいお土産。
人力で丸太が上げ下ろしをされていたころの北海道の風景を想像する一品です。
2009.08.22 Saturday 20:58
明日23日は、高校野球で新潟県勢初の決勝進出をかけて、日本文理が県岐阜商と対戦します。
高校野球というのは、不思議に郷土愛をかきたてますよね。
野球の名門校ほど、幅広い地域から選手が集まり、年々地域色のあるチームは減っていると思われますが、それでも在住地域の代表となると、応援に力が入ります。日本文理の準々決勝の際も、家電量販店のテレビコーナーに「観戦者」が鈴なり。立ち寄った病院では、看護師らスタッフも待合室のテレビが気になる様子でした。
かくいう私も、小さいころ住んでいた西日本の県代表が決勝に勝ち進んだときは知りえる限りのありとあらゆる神仏に勝利を祈った記憶があります。その後、いくつかの地域に引っ越しましたが、在住地域の代表チームの動向は、どこへ住んでも気になります。
高校野球は、投手をはじめ選手のレベルが昔より向上した感はありますが、ちょっとしたミスから試合の流れが大きく変わったり、一本の安打がチームを勢いづかせたり、選手の気持ちの強さが勝敗の行方を握るところが、野球ファンにとどまらず、万人を引きつけるように感じます。
明日はちょうど日曜日。試合中の新潟の町は、いつもよりちょっと静かになるかもしれませんね。
2009.08.19 Wednesday 17:43
衆院選が公示されました。選挙当日は事情があって投票に行けないので、早々に期日前投票に行ってきました。
投票所でいつも思いだすのは、選挙権を得て初めての選挙です。
市議選か何かだったと思いますが、急に近郊の知人の不幸があり、投票に行くことができませんでした。センター試験の日に試験を受けない私立大専願者のような、祭に参加できないような、そんな気分を覚えています。
これまで選挙といえば、各政党や候補者の主張の違いを理解するのに一苦労というか一票投じることによって自分の生活がどう変わるのか、イメージしにくい感覚がありましたが、いわゆる「マニフェスト選挙」によって、そのあたりがクリアになり、選びやすくなったことは事実だと思います。
しかし、○○を無償化します、△△をいくら支給します、などといった公約が目立てば目立つほど、おいしい話ばかりぶら下げられているような、一抹の不安も。
政治の役割は今の暮らしの改善であるのはもちろんですが、この国の未来をどう築いていくのか長期的なビジョンを示し、導いていくことでもあるはず。それは決して、分かりやすい話、判断しやすい材料ばかりではないように思います。
分かりやすい感じを与えるだけに、危険を感じる今回の選挙。
いつも以上に開票結果が気になります。
2009.08.18 Tuesday 06:45
知人が新潟市の病院に入院しているので、時々お見舞いに行っています。
中規模の総合病院ですが、通ううちに、看護師さんらスタッフはもちろん、同じフロアの入院患者の方、何人かともあいさつを交わすようになりました。
病院の中でのコミュニケーションは、山登りでのそれに似ているもの、というと言い過ぎでしょうか。一種特別なコミュニティのように思います。
ハイキングなどに行くと、登山道ですれ違う他人同士が「こんにちは」などと挨拶を自然に交わしますよね。病院にはあの雰囲気と同じものを感じるのです。
山登りの場合は、下界を離れた特別な空間で、登っている者同士の不思議な連帯感が、あのすれ違いざまのあいさつにつながっているのだと思います。
そう考えると、病院の場合は、出産した人やその関係者など一部を除き、患者も見舞い客も、差はあれど痛みを背負っている人が集まる場所であることが、お互いのつながりや人に対する優しさを生んでいるのでしょうか。
先日、入院した知人と、この病院の廊下を歩いていると、両足にギプスをはめた松葉杖の男性が、さわやかに「お世話になりました。お大事にね」と笑って退院していきました。毎日リハビリで廊下を何往復もしていた人でした。何人かの入院患者の方が温かい言葉をかけ、笑顔で見送っていました。
見送る人は心から回復を祝い、去る人も感謝の言葉を口にして別れを告げる。
お互いの素性を詳しく知ることのない者同士のコミュニケーションゆえに、本物の心の通い合いがあるような気がします。